kongaragaruのブログ

こんがらがると10回言ってみてください。こんがらがります。

DISTANCE/是枝裕和

「ほんとは誰なんですか?」

 

ああやっぱり。と。

浅野の一言で全てが繋がり、モヤモヤが晴れる。

 

 

浅野と新のシーンで教祖をお父さんみたいと言ったことがなんとなく引っ掛かっていた。

新がりょうと会っているシーンは十分に大人なのに、取り調べではあまり覚えていないと言ったこと。

姉弟には見えないりょうと新のシーン。

「子どもが可愛くないの?」と問い詰められている声が聞こえる家の廊下。

あと今思うと、田辺さんに敬語だし、写真を合成しているところも。

それらが全て繋がった。

 

つまり新は、教祖の実の息子で、幼い頃に父は家を出ている。

りょうは、あの若さで教団の古株ということからも、恐らく昔から新と教祖家族と信仰があり、弟の自殺がきっかけかはわからないが、新の父から勧誘を受け入団。

しかしきっと清里の山奥に篭り始めたのは事件前なので(実際のオウムの話でもサティアンに篭り始めたのは毒物をつくり始めてからと聞いたので恐らくそう)、それまでは新の家の近所に住んでいたのだろう。

幼馴染のお姉ちゃんのような存在でもあり、愛しい恋人でもある。

 

今思うと、寺島の同僚が寺島に「子ども見せてよ」「うちは子ども諦めたから他所ん家の子どもを可愛がる」という話をしていた。

これは教祖⇄新と教祖⇄信者の関係に置き換えられる。

教祖は、実の子ども(新)を捨てて他所ん家の子ども(信者)を可愛がっている。

卑劣な事件を起こした張本人である父、自分たち家族を捨てた父。

もう家族ではない、と言うように、PCで継ぎ接ぎの家族写真(父:田辺さん、母:花屋の主人?、姉:りょう)を作っている新。

一方で、父のことを知るために、田辺さんの元に通い、父の話を聞く。

田辺さんは恐らく父の古い友人か親族だろう。でももしかしたらりょうの実の父親かもしれないな。息子は自殺じゃなくて出て行っただけとか。

父に対して恨みを抱いている一方でどんな人だったのか知りたい気持ちもある。

 

靴だけ残していったが、ここ(ロッジ)で更に何か遺物を見つけてしまったら…と言う先生。

タイトルであるdistanceとは、凶悪事件の実行犯でありかつ家族であるりょうたちと彼ら5人の距離なのではないか。

「自分」と「元妻/夫/兄/恋人と父」と「実行犯」という関係性が三権分立というか、どっちつかずの状態になっていた状況から、3年という月日が経ち(実際に出家して顔を合わせなくなってからはもっと経つだろう)徐々に一緒に過ごした時間の記憶が薄れて新たな記憶に塗り替えられていき、「元妻/夫/兄/恋人と父」は「実行犯」に近づいて「自分」対「実行犯」という図式を取り始めた頃なのだろう。

でもそれはまだ危ういバランスで、ここで一つ遺物が見つかってしまったらすぐに転覆してしまうような。

距離をとることで、心のバランスがとれる。だから距離をとりたい。

遺物なんて見つけたくない。けれどもしかしたら、と心のどこかで期待してる自分がいる。

別に、もうそんな凶悪犯とは縁を切ったからお参りになんて行かない、でもいいのに。

それでも毎年来てしまう。来年も行く。

だってさ、あんな風に遠藤憲一が出て行ったのにまだ同じ部屋に住んでいるんだよ先生。

 

 

車が無くなって浅野に着いて行くという決断をしたとき、寺島は「正気か?」というようなことを言った。

鑑賞中は寺島の行動が無謀に思えたけど、冷静に考えると教団の人間を信用する方が怖いわな。

回想シーンを見ると、一番言葉でしっかり止めているのは寺島なんだよね。

元妻は入団前から子どもを黙って下ろしていた。

心から信頼できる場所を見つけたという妻。俺のことは?

2度の無断中絶からわかる、信頼されていなかったという事実。

一方で再婚した今の妻との間には1歳の娘。イライラしている妻。

信頼のかたちとして子どもはあるが、それは信頼なのか?

 

伊勢谷の兄は学業にうちこむ優秀な兄。でも家族の中では立場が弱い。

伊勢谷は無意識に下に見ている。それでも優しい兄。

5人の中で元々の距離が一番遠いのは伊勢谷だと思う。

でも、だからこそ後ろめたい気持ちも一番大きい。

無意識に見下していた自分の振る舞いが兄を教団に導いてしまった。

送り出す時も唯一平和的なんだよね。理解しようとしていないから止めない。踏み込まない。

「人それぞれだから」って言葉は聞こえはいいけど、壁をつくって理解を諦めたことにもなる。

彼は他の3人と違って、逆に家族としての兄に近づこうとしているのかもしれないね。

それもまた、distanceの測り方。

 

伊勢谷たち兄弟が歩いてた道が自分にとっても馴染みの深い場所だったことで、普通に生活していてふとしたきっかけでそっち側に落ちてしまうことってあるんだな、とリアルに感じられた。

ちょっと心のどこかに弱い部分があって、夫のことを信用できなかったり、心の底から信用できる人・場所がなかったり、家族からなんとなく見下されていたり。

そういったそういった心のちょっとした弱みから勧誘されてしまったりするのだろう。

残された側には、あのとき寄り添っていればという後悔。

彼らの言っていることって、「ああカルトにハマっている人の言葉だな」ってすぐに分かるんだけど、ちゃんと聞いてみるとわからなくもない。

自分を受け入れてくれる場所、心の安寧の場所を見つけたら、そこを守るために何でもしちゃう。

共感はできないけれど、納得はできる。

 

 

 

是枝さんの映画は、とにかく感じて、考える。スクリーンと椅子の間くらいに自分の存在がある感じ。

そしてひとつひとつの画が印象的。写真のようだし、絵画のよう。

一コマ一コマがそれだけで多くの心情を語っていて、それを積分したら映画になったという感じ。

幻の光のお葬式のシーンはいつまでも忘れられない。

 

最後の火のシーン印象的だったね。

普通火をつけて燃やすといったら過去との決別みたいなものを示すと思うんだけど、これもそうなのかな。

どちらかというと、唯一殺されたのではなく自殺した父に対して、父を供養する意味で火をつけたのかなと思った。

事件に対して、これでもう終わりにしよう的な、、

でもまだ新は父と完全に決別できてるわけじゃないと思うんだよね。

でも一歩近づいたというか、父という人の存在を確かに感じられるようになったってことじゃないかな。それまでは歴史上の人物というか、実体のない存在だった父が、確かに存在したことを実感したというか。

父が好きだった百合の匂いは覚えていますと言うように、匂いのように実体のない存在だったんじゃないかな新の中で。まあ後ろ姿は覚えているけど。

田辺さんが亡くなったことで、塗り替えようとしていた「家族」「父」の存在が一気に剥がれて、現れたのかなって。

 

 

あとブルーなんとかの時間が好きという話で、浅野が出て行くときはまさにその時間だったね。

早朝の森の色が綺麗で、でも走る音は切実で。怖くて綺麗で印象的なシーンだった。

パッケージが満開の百合の花というのもいい。

 

演技についてはもはやアドリブだらけのドキュメンタリーのような映画だった。

 

ロッジでの浅野の妙に落ち着かない動きとか、靴下を気にする寺島とか、とりあえず間をもたせようと皆ポツポツと話す感じ、微妙な距離感がああリアル…と感じた。

皆演技が上手だね。上手というか、リアル?ドキュメンタルを観てるみたい。

寺島と元妻と後輩とのカフェのシーンなんて、本物のカルト信者の方使ってるのかと思うほどのシーンだった。

新とりょうのシーンでは、言葉が詰まったり、被ったりするのがとてもリアル。

調べてみるとどうやら色々実験的なことをしているみたい。

前日にワンダフルライフを観たところだったので、そこはすぐに半ドキュメンタルなのね、と割り切れて観れたので良かった。

同じカルト宗教を扱った映画に愛のむきだしがあるけど、あれとは全然違うね。当たり前か。

 

伏線については回収しきれていないところが多いので、もう1度観たい。

「5人のうちの誰かが映る→直後はその人の回想シーン」というパターンで進んでいたような気がする。

それを踏まえると、浅野と新がロッジで2人で話している時に浅野が教祖はお父さんのようだったと述べた後の中年男性が庭でうずくまる後ろ姿は、鑑賞時は浅野の回想かと思ったが新の回想だったはずなので直前に映ったのが新だったか確かめたい。

教祖が自殺したという話を聞いたときの新の反応や、田辺さんの言葉、アルバムの内容、教祖が出て行くときの会話に注意して観たい。あと伊勢谷と新の神についての話もちゃんと聞きたい。

 

あとは車とバイクがなぜ無くなったのかと、新の実の姉?(写真に写ってた)が気になる。

全部新がやったのかもね。

2度観ないとわからない映画だと思う。しかし2時間以上ある作品なのでなかなかそうもいかない。

 

実はカルト教団の遺族の話だということも知らずに観始めたから、駅のシーンで寺島と先生が会った時は、被害者遺族が命日に来ているのかと思った。それにしては人数が少ないな?とか、なぜこんなに山奥に?という疑問はあったけれど。

伊勢谷の「実行犯の遺族で」という言葉でようやく理解。

そこからはDISTANCEってタイトルだから一昼夜かけて実行犯遺族と元教団員が夜のピクニック的なノリで山を歩いて下りながら理解りあっていく話かなとか見当違いなことを考えていた。笑

是枝の映画、序盤に自己紹介が全くないんだよな。だから2度観ないとわからない。

 

初めに書いた浅野の台詞があることでこの映画の主人公は新となり、より深みが出ている。

ワンダフルライフもそうだけど、主登場人物が複数いる映画は最後に主人公を決めることで、その人にスポットを当てて観返した時に違う感情がみえてきて面白い。

万引き家族もそうか。人物自体が伏線になっているから自己紹介がないし2度観ないとわからない。

 

私はけっこう是枝さんの映画好きです。初期三部作はこれで見終えました。

ワンダフルライフが一番好きだったかな。