kongaragaruのブログ

こんがらがると10回言ってみてください。こんがらがります。

本を読みながら考えたこと

終末のフールに引き続き、羊をめぐる冒険を読み終えた。随分前に、父が貸してくれたものだ。確か長期休みか何かで退屈を極めていた私が、何か面白い本はないかと父に尋ねたはずだ。私にとっては初めての村上春樹だった。それに出会う時期は早い人もいるしもっと遅い人もいるし、もちろん一生出会わない人もいるだろう。早いとは何を基準にした言葉なのかわからないが。それなら村上春樹の母はマイナスになる。

居間と和室と便所を行ったり来たりしながら読み終えた本は、内容よりも、何よりもまず父から既に見放されていることを私に知らせた。以前なら父の書棚の本を読んでいれば一声かけたはずだし、進捗や感想を聞いてきた。机でアルフォートを貪り食っていても、和室のパラマウントベッド(我が家には現在諸事情によりパラマウントベッドが置いてある。要介護者が家内にいるわけではない。)を最高位置にしてさらに起き上がらせた上に枕を置いていても何も言わない。何も言わないことが一番ものを語る。便所内は居心地がいい。自動的に洗浄をする便器のまわしは、ちょっとタイミングを逃すと大の方向に回る。出遅れた私の手は機械的なその力強さに負けて、押し戻される。その瞬間、もし将来SF映画で幾度となく観たような機械と人間の対立が起こったとして、映画のようにはいかずに間もなく人間側の敗退に終わるだろう結末が頭に浮かぶ。この便器はリフォームの際に業者に任せたところ、これになったらしい。設備費を削った結果、水道代が嵩むなんて馬鹿らしい。唯一、1階の便所にも棚を設けてくれたことだけは良かった。これで1階の便所にも長居ができる。とは言っても、私は一所に居続けることができないので結局切りのいいところで便所を出てしまうのだけど。本を読みながらでもスマホをいじるし、何ページで終わりなのか数えるし、本を面白いと感じて、夢中で読んでいるような気はするのに、結局そんなポーズを取っているだけの自分に嫌気がさす。

近所にまちライブラリーがある。よくわからないけど、民家やお店の前に小さな箱があってその中の本を自由に借りられるサービスだ、と認識している。そこで赤川次郎を借りた。ファストフードの中でもマックのような、気軽に手に取れて、そこそこ楽しめるもの。歯医者の長い長い待ち時間を潰すにはちょうどいい。使い捨てのマスクにも近い。この本にはシールが貼ってあるけれど、もう一冊には無いことに気が付いた。返す際に他の本の背表紙を眺めても、時々貼ってない本があることもわかった。きっとここを知っていて読まなくなった本を善意で勝手に寄贈している人がいるのだろう。運営側にとってもそれは善意として受け取られるのかはわからないが、そのうちの一冊を手に取った私にとっては今のところ善意として働いている。まぁ何はなくとも、徒歩10分もかからない図書館へ行くのすら億劫な私には、この小さな本棚が大変に有難いものであることは変わらない。信号も大きな道路も無いので、本を読みながら歩くという至福の体験ができる。

父に諦められたからなんなんだ。別に矯正費用を出してくれなくなるわけでもなく、コロナで回収時期がずれ込んだ前期の学費を払ってくれなくなるわけでもない。でもそれだけでこの家にいる意味はなくなったように感じるし、それでも私はあと7ヶ月この家にいるのだろう。高校1年生の頃、通い始めた塾で先生から両親は私に随分期待しているようだと聞かされた。期待しているなんて一度も聞いたことがなかったので、まさかそんなわけ、と思ったが、心のどこかで浮かれていた。きっと私が兄に対して抱いていた感情を両親に肯定されたように感じたからだ。その先生が言っていたことが確かかは別として。その辺りから、親の期待に応えることが人生のやりがいになっていたような気がする。いい大学に行けば、いい成績をとれば。本を読み、語れる趣味をもち、芸術を解し、努力を続ければ。元々あった「かくあるべき姿」が肥大化していった。しかし私は元来怠け者で、熱しやすく冷めやすい性格の飽き性が故、のめり込んでは8割方理解すると手を引くところがあった。勉強も、趣味も。全く以て凝り性ではなく、父方の血は半分しか引いていないことを痛感した。別に母が嫌いなわけではなく、むしろ母の現実的な面をもっていることも自分の矜持にはなっていたが、なんとなく、私の理想像は父寄りであった。そしてそれは持たざる者からの諦めと羨望の入り混じった視線だったことも今ではわかる。

私は父が死んだら、冬眠のガールのように彼の本棚を全て読むのだろうか。読んでみたい本はたくさんあるが、結局読まないで終わるだろう。せいぜい数冊読むか読まないか、という程度。Amazonの欲しい物リストにも読みたい本が溜まっているが、そのどれもが読まずに終わるだろうことくらい、23年も生きていれば想像がつく。数えてみればもうすぐ24になるのだ。干支も二回りする。

こうして、文体も考え方も全て読んだ本やその時の趣味にすぐ影響される。まるで自分というものがない。あるように思えて、ないようで、でもやっぱりそれが自分なのかしらと堂々巡りの考えをする。先のことは誰にもわからないから、目の前のことをひとつひとつ片付けていくしかなくて、私はまずシャワーを浴びるべきだ。こんな誰にでも言えるような結論しか下せない。