kongaragaruのブログ

こんがらがると10回言ってみてください。こんがらがります。

烏滸がましい

また随分書いていなかったような気がするけど2ヶ月半くらいか。

時の流れが速いように感じるけれど、案外こんなものなのかもしれない。

 

ら抜き言葉に引っかかる。

Twitterでフォローしている聡明(そうにみえる)お姉さま方もけっこう使っている。というより「見られる」を「見られる」と書く人の方が少ないように感じる。

話す時はまぁいいか……と思うけれど、そもそもどういう立場で「まぁいいか」なんて赦しているんだ。

 

 

烏滸がましい。

 

 

この言葉をよく使う。自分にも他者にも使う。

口に出すことこそないけれど、内心思っていることは多い。

「それはあなたの物差しを押し付けているだけである。私には私の思想の自由があり、私の正義に則った言動を、あなたの正義でジャッジして批判するというのは烏滸がましくないか。」

というように。

 

では思想の自由とはどこまで許されるのか。地下鉄にサリンを撒いても「自由」なのか。

地下鉄にサリンを撒くことは私の正義に則って考えると「悪」である。まぁそこら辺の人に「地下鉄にサリンを撒くのはダメですよね」と聞いてみても、大方「はい」という答えが返ってくるだろう。日本の大多数の人は私と同様、「悪」とジャッジするはずだ。だから地下鉄にサリンを撒いた人が法律で罰せられても、反対する人は少数である。すなわち私の感覚は「間違っていない」。

「悪」とジャッジする理由は何故か?人を殺しているから?他者に迷惑をかけているから?公共の福祉に反するから?

とりあえず、ぱっと浮かんだ上の3点についてひとつひとつ考えていく。

・人を殺しているから→兵士はなぜ罪に問われない?あの国の大統領は?

・他者に迷惑をかけているから→アメリカではこれを悪とする教育はしない、って最近よく聞くよね。生き物は支え合って生きているのだから、迷惑をかけないことは不可能では。

・公共の福祉に反するから→法律でそう決まっているけど……それだけ?

 

となると、地下鉄にサリンを撒くことは悪であるという意見の根拠は、法律(憲法含む)でダメだと決められているから、ということになる。

では法律でダメだと決められた理由はというと、社会の風潮がその件をダメだと決めたからである。

堂々巡りだ。

 

時代が変われば常識は変わる。江戸時代に侍は仕事で人を斬っても、農民などは人を殺したら罪に問われたらしい。今だってそうだ。この瞬間も戦争中の地域で爆弾を落とし何人も人を殺している兵士が、今後罪に問われることはないだろう。日本だって死刑執行人が殺人罪に問われることはない。人の命は決して平等に扱われることなどなく、常に不公平である。それはその人が生きる社会での業績に依る。外見、地位、人間関係、資産など、その人を構成する全てが評価基準となって、我々は一生他者から評価され続ける。できるだけ命の価値を重くするために、この社会で。

 

となると、自分の子どもを殺された親が殺人犯に対して死刑にしてほしい、できるだけ重い罪を背負ってほしいと泣いて訴えているのを見ても、なんてエゴ、そして他者に対して「死ね」と言ってはだめだと小学校で誰もが習うことを公共の電波に乗せて発信している恐ろしさよ、と考えてしまう。

「~してはいけません」「~なときは~しましょう」と幼い頃に教わったことなんて、その瞬間のその人の価値観における善悪であって、全ての場合に共通するコモンセンスではない。そんなものは存在しない。

 

主張

おともだちに「死ね」なんて言っちゃだめよ。

根拠

パターン①:死んだら悲しむ人がいるでしょ。

パターン②:自分が言われたら悲しいでしょ。

 

全然意味が分からなかった。「死ね」と言ってはいけないのはなんとなくわかるが、悲しむ人がいなければ言っていいのか、自分が言われて悲しくない言葉ならどんなことでも言っていいのか。根拠とされているものは十分条件に過ぎず、説得力に欠ける。

 

こんな話だと自明のような気がしてしまうが、例えば先日あった母と私の会話を書く。

「家を出る前に家族に挨拶をしなさい」という主張に対して、「あなたはそれを善とするが、私は私の思想の自由があってしていない。そして他者の権利を脅かしてもいない。それなのに何故あなたは私の行動を変えるよう要求できるのか。なんて烏滸がましいのか。」という答えをする。

アラマァなんてヘリクツ。と思うだろうが、まぁ機嫌が悪かったのだ。そして全く挨拶していないわけでもなく、玄関から遠い部屋にいる耳の遠い祖父母に聞こえるよう挨拶をするには遠回りをして挨拶するか、よほど大きな声を出さなければならない。普通に挨拶しても聞こえていないことが多い。慌ただしい朝には地味なストレスである。ということを言い訳させてほしい。私だってそんなに冷たい人じゃない。

思想の自由ってなんだろう。どこまで許されるんだろう。人間は種の保存のために社会を構築することを選択した以上、自由はある程度抑制される。社会の相互扶助によって生きられているからだ。社会を構築して多様性を保持することがリスクヘッジとなる。

 

挨拶はマナーとして、この社会で生きやすくなるための先人たちの生活の知恵である。でもそれを作りだしてきたのも先人たちである。

マナーって無い方がいいんじゃない。でも無いと社会って大変なことになるよね。

自由とはやはりこの網だらけの社会の中だけが可動範囲なのか。

でもルールもマナーも変わっていく。どの網は破ってもいい網なのか。

私はその判断に確信を持てないし、あやふやでも進んでいくなんて自信も無い。

できるだけ選択の際に根拠を明確に持つ意識はあれど、それが社会の流れと沿うわけではなく、誰かに「正しい」とマル付けしてもらえることもない。ましてや私の決断に他者が乗っかるなんて、恐ろしくて責任を持てないからやめてほしい。他の生命の責任なんぞ持てん。

親になりたいと思えない。なれる気がしない。私の背中を見て育つまっさらな人間がいるなんて恐ろしい。

教育は洗脳である。いずれ成長して自分なりの意見を持つようになり、親に反対できるようになったとしても、その根幹には親が与えてきた環境がある。無限の可能性を持った無垢な新しい生命に、この私が道を狭めてしまうかもしれない。怖い。

 

「子どもが欲しい!」と明るい顔で話す友人を恐ろしく感じる。無垢が最も怖い。

生まれた瞬間が一番可能性があり、生きるにつれてどんどん狭まっていく。狭める大きな要因が教育である。教育には金が要る。知識が要る。時間が要る。人が要る。

もちろん全てを叶えることはできない。どの要望を叶え、何を棄却するのか。

何でも与えてあげたい。ただこの金は私の稼いだ金である。私が生きるための金である。私の自由に使える金である。ここは資本主義の国だ。

ただ子を育てることは社会の存続そして種の存続に必要である。よっぽど自分より若い生命体に投資すべきである。私の稼いだ金をだ。私だってそうやって育ててもらったのだから。上から与えられた金を下に還元するのだ。

頭では理解しているつもりだが、そんなことできるのだろうか。

 

 

余談だが、犬を飼っている人は愛情が有り余っているのだと思う。

私は自分しかかわいくない。他者に掛ける愛情すら乏しいのに、況や犬をや。

愛情の母数が違うのだろうか。優しさとは見返りを求めない他者のための行動だと定義するが、そんなこと24年半の人生で一度もしたことないように思う。全て長期的にでも見返りを想定している。人間関係も損得勘定で動いている。

 

幼稚園か小学校の頃、家にことわざの本があった。1Pにつき1句の説明が載っており、4コマ程度の漫画やイラストが描かれていた。

その中の「情けは人の為ならず」の説明には、主人公の少年が家の外で女性を助けたところ、その方が実はお母さんの友人で、お礼を伝えに来て、息子の善行を喜んだお母さんが少年のおやつにケーキを出す、という漫画が掲載されていた。私はそれをすごく覚えている。

知り合いが誰も見ていないところでも、社会的に善とされるであろう行動を取ることは、この漫画の影響が強い。結局どこかで良い思いをしようと思っている。善いことをすれば誰かが見ている。それは神様仏様かもしれない。因果応報。仏教がベースにある宗教を信仰する家庭で育ったが故であろう。良い事があればあれのお陰かな、悪いことがあればあれのせいかな、と思い悩む。だからこそ占いが好きだ。嫌なことがあっても「占いで今日はアンラッキーって言っているから仕方ないか!」となるから。因果応報とは少し違うが、とにかく理由が欲しいのだ。その根拠の確かさは二の次でも。

だから私はどんな善い行動も自分の利益のために行なっている。

 

 

閑話休題、こんな自分の利益しか考えていない人間に他の生命体を育てられる気がしない。それどころか他者と密接な関係を築ける気がしない。

 

中高の友人が好きだ。特に仲良くしている。彼女らは優秀で、話しているとやる気がわく。話もいつも面白い。話していて大きなストレスが無い。

前の彼氏はとにかく私の話を聞いてくれた。時場所金を選ばず私を最優先にしてくれた。

今の彼氏も私にすごく尽くしてくれる。デートプランを立ててくれるし、電話したいと言えば応じてくれる。

 

では、彼女ら、彼らにとって、私はどんな利益を与えられるのだろう。

中高の友人らとはたまに会っては楽しい時間を共有していると感じるし、私も積極的に話して場を盛り上げられていると思っているので、そこに私の存在意義があるのではないか。

元彼はよくわからないが、私のことを可愛い可愛いと言っていたし、彼女がいることが嬉しかったのだと思う。あと物事に対する愛情が一途なタイプだったから、完成の法則というか、一度加速して好きになればその感情がずっと続く人間なのだろう。

今の彼氏は……彼女がいることが嬉しい、私のことが可愛い(らしい、いつまでそう思ってくれるのかわからないが)、あと単にデートが好きなんじゃないか、そのくらい?彼氏のこと、正直よく知らない。「男の子にモテる用の私」で対応してきたから、いやそれも私の一面なんだけど、その私を触媒として反応する部分の彼しか知らない。そしてそこで見える部分はひどく浅く狭い。もっと色々な話がしたいと、こんな鬱々とした文章を書いている私の一面を出してみたが、いまいちな反応であった。こちらの面の触媒に反応する基が彼の中には無いのかもしれない。きっとそれでも、時間をかけて擦り合わせていけば、ピッタリではなくともなんとか嵌らせることができるとは思う。ただその労力をかけるのか?という問題だ。サイズの合わない服を少しずつ調整してマイサイズにするか、マイサイズに近い服を選び直すか。結局どれくらいその服を気に入っているかである。実はそんなに気に入っていない。けど大事にしたい服ではある。そんなに似合うとは思わないしデザインも気に入らないけど好きな人にもらったネックレス的な。

 

疲れている彼に愚痴を聞いてもらった。自分のうじうじした面を見せた。その反応が気に入らなかった。でもそれって私の要望通りに動いてほしいってこと?ただのオナニーじゃんか。ペッパーくんにでも話しかけておけ。

人間関係は損得勘定。思いやり。みんな愚痴ってどうしているの?鍵付きTwitterに吐き出しているの?人間は生きているから、愚痴を吐き出すのには忍びないよね。だって暗い話ってつまんないじゃん。楽しい話しよーよ。そうだ、来週のデートの話とかさ。

思いやって、楽しい話だけしようとしていたら浅い関係で終わる気がする。それで何が悪いのという気はするけど、悲しみも喜びも全部半分に分けて感じ合おうってSexyZoneも歌ってたし。

悲しみを一緒に背負ってもらおうとしたのがエゴだったのかな。そもそも聞いてくれただけでありがたいのか。そうだよね、そう考えるのが「善き行動」だよね。

他者を変えようとするな、自分が変われ

そういう教育を受けてきたから、それが「善き行動」であり「正解」であるとインプットされているんだけど、それじゃ私のストレス爆溜まりだしなんでお前のために俺が行動せなアカンのじゃうっせーだまっとれと最近は暴れております。自分の中の「正解」の軸に反する行動ってそれはそれでストレスが溜まるんだけどね、それでも今はこっちでいたい気分。そう気分なの。だからほっといて。皆気にしないで。でも無関心にはならないで。さみしいから。