kongaragaruのブログ

こんがらがると10回言ってみてください。こんがらがります。

場合分け

人の目に晒されることが嫌だ。相手は見ていなかったとしても、いるだけで見られているかもしれないと思ってしまい、それがとてもストレスフル。赤の他人でも、上司でも、友人でも、夫でも。ただし他人がいない環境では自分を奮い立たせるものがないため何もやらなくなる可能性がある。集団塾だったからこそ受験勉強に励めたのもひとつ。そのように、他者の視線に曝されることは「正しいストレス」として向上心となり努力できるという見方があるが、一方で、自分の内から湧いた「こう在りたい」という欲求ではなく、自分の外の環境(それは社会だったり個人の考えだったり)の「かく在るべし」という基準点に追いつかなければならないという、外からの強制力で動かされることは心に良いのだろうか。

ここまで書きながら、前述の対比がMECEでないことに気付き、「向上心」「努力」は必ずしも「良い」とは限らないのでは?と疑問を抱いた。

「正しいストレス」でもあり、同時に外からの強制力で動かされてもいる。

向上心は必要なのか。資本主義は経済成長を前提としているため、伸びないことは悪である。だが資本主義でなければ、別に問題はないのだ。

ではここで資本主義の場合とそうでない場合とで、場合分けが必要になる。

(ⅰ)資本主義でない場合

考えやすいこちらから。

経済成長を前提としないため、個々人が業績や効率を伸ばしていくことが求められない。すると、現状維持でも良いわけだから、一定のところに乗せたらその後は同じことを繰り返せば良い。一定とするラインはそれぞれが決めればよい。ただ、こうして個々人が決まったことを繰り返していると、新しい躍進がないため、徐々に廃れていくかもしれない。環境破壊は進み、技術の継承者はおらず、人口は減り、業務が回らなくなる。

(ⅱ)資本主義の場合

 

「正しいストレス」なんて、「良い意味で」くらい意味のない言葉だ。

誰かが自分に良いように言っただけ。

ストレスはあくまでストレス。気持ちの良いものではない。

使わずに慣性運動を続けるもよし、時たま使って加速させるもよし。

ただ、使わずにいるならそれ相応の暮らしだし、全員が全員そのスタンスだと社会は成り立たないかもね。少なくとも資本主義は。

この社会は、ストレスをかける加速をした一部のパワフルor鈍感人間によって経済成長している、

 

書きかけのものを投稿しておく。7/16作成。

 

お下品ざますわ

またブログを書いている。一つの記事を編集しようかと思ったけれど、面倒だし、二本記事があった方がお得じゃない?(何が?)ということで、散歩の行き先について。まずは図書館。節約して遊ぶとなると図書館が最適解となる。働いている時は本屋さんで買うこともあるが、本は図書館、漫画は電子書籍となんとなく決めている。作家にお金が入らないので支援にはならないが……違法な手段でもないので許してほしい(こんな誰も読んでいないブログですら許しを請う、かくあるべしの基準の強さよ。これはもう深井さんに言わせると宗教なのではないか。「お天道様がみている」ということでは?)難しいことは読めない。森茉莉のエッセイや北杜夫のどくとるマンボウシリーズ、あとはいつもの村上春樹、書棚にある読了済みの遠藤周作の軽いエッセイなんかを読んで、脳が暇にならないようにしている。「まず牛を球とします」や「夏への扉」も読んだが、肌に合わなかった。外国語の翻訳は、回りくどい表現や長ったらしい嫌味がうざったい。わざわざ嫌味なんて吐かなきゃいいのに。そんなんだからフリードリヒはマリア・テレジアやエカチェリーナ2世に目の敵にされるんだよ?まぁこれが文化なのでしょう。最近見ている(でもYoutubeアプリは消した)、Mt.Fuji from Japan のYoutubeでジョージとニックとだいじろーがよく話している通り、英語圏(それ以外の語圏の方はあまり言及していなかったからわからない)の悪口は性的なものばかり。しかも直接関係がなくて、日本語話者である私からすると「だから何……?お下品な方ね。」というだけの言葉。「夏への扉」は父が大好きだし、名作とされるものだから読んでおくべき(おっ!ここにも出ましたね「べき論」が。)なのに、吹替映画の声優のような話し方で、内容よりもそのわざとらしさが視界の邪魔(視界などないのだが)で読み進めるごとに疲れてくる。いちいち舞台俳優なんだよな。でもこうして書くと、村上春樹の書くキャラクターも舞台俳優のような喋り方をする。長ったらしく回りくどい、比喩表現過多の台詞。翻訳が多いから、村上春樹独自のあのキャラクターが出来たのか。しかし村上春樹作品のキャラクターは、こんなやついねぇよとは思いつつ受け入れられる、噛み応えがあるけれど問題なく食べられるし美味しい、そうハード系グミのような存在であるのに対し、海外作品の翻訳はなぜしつこくて重たくて吐き出してしまう、着色料盛り盛りの激甘ドデカケーキのようなのだろう。翻訳者の技量の問題なのか?ということで、次回、村上春樹訳のものを読む!でした。

話は戻りまして、散歩は図書館のほかに、行ってみたかったカフェを目的地にしています。朝起きる理由になるからね。カフェに行って軽食(さすがにプレートではなくドーナツくらいにしている)とカフェラテを頼むだけで1000円いくので、正直、働いているよりもお金使っているけれど、まぁしばらくは許してほしい。そうか、毎日はできないとなるとこれから1か月暇だな。掃除もしてしまったし、もしかしてゆっくりやればいいのかもしれない。

本じゃないけれど、好きな同人の方の作品をPixivで読み返している。本当に面白い。元気づけよう、力を与えようと思って書いているわけではないだろうし、全く以て人を元気づけるような内容ではないのだけれど、過去に読んだものが今も新鮮に面白いこと?キャラクターの背景や考えや身に着けるものや状況などなど想像をかきたてること?なんだかとっても嬉しくなった。太陽光を浴びて、SNSやショート動画でなく紙の文字を読んで、少しずつ活力を取り戻していきたい。

あぁそうそう、思い出した。お休みの間、そこかしこに散歩で出歩いているけれど、化粧をしていない。今日は遠出して歩いたから眉毛を描いてヘアオイルもつけてみたが、基本は日焼け止め程度。髪の毛も触らない。日頃いかに身だしなみに時間と労力がかかって外へ出るハードルになっていたか実感する。

散文散文。書くことがリフレッシュになればいい。

ふかふかのお布団に寝かされた桃の赤ちゃん

休職した。仕事のことを考えると苦痛で、仕事中もそうでないときも涙が止まらなかったので病院に行ったところ適応障害だと診断された。以前、兄の障がいのことで、病名をつけるのはグラデーションに線引きをする行為だと書いたが、精神病というのは病院に行くか行かないかで病気であるかないかが決まる「状態」を指すものだとつくづく思う。社会人になってから、涙が止まらない状態はこれまでもあったし、それで早退したり一日休暇を取ったりということはあった。大学のときも、製図室に行けなくて大学近くの彼氏の家に泊りこんで課題を仕上げたこともあった。今回は、カウンセラーの勉強をしている母が指導カウンセラーに私の状態を話したことで、病院に行った方が良い状態であることがわかり、行ってみて診断されたというわけだ。あれもこれも、今の状態が"そう"なら、同じく"そう"であったはずだ。

適応障害とはいつからあったのだろう。最近病名がひろく知られてきたように感じるが、きっと前からあったのだろう。SF小説を読んでいると「分裂病」がよく出てくるが、これは今のなににあたるのだろうか。発達障害とかそういう先天性のものかと思うが。

休職をはじめて5日ほど。最初の数日を乗り越えたら、あとは発作的に感情が昂ぶることを除けばかなり症状は落ち着いた。こうして「涙が出ること」「ごめんなさい、赦して、死にたいと何度もつぶやくこと」「頭をかきむしってじっとしていられなくなること」等の行為をしてしまうことや、「何もやる気が起きず、何をするのも怠い」状態に対して「症状」という言葉を使うことはまだ違和感があるのだが、それらを「症状」として「病気」であることを受け入れることが快復への一歩としてこの記載をする。(「」使いすぎ?)

日中やることが無いので散歩している。放っておくと寝てばかりになって足が弱ってしまう。休職初日から数日間実家に泊っていたのだが、10mおきに休憩が必要なほど疲れてしまった。最悪の状態の時にずっと寝ていたので(起きていると暇な脳がろくでもないことを考えてしまうため)、これは筋力が弱っているのだと思い無理してでも歩こうとしていたが、よくよくiPhoneのヘルスデータを見ると、全然歩いていない日が一日あったくらいで週平均6000歩超だった(小学生の頃、盲腸で入院して1週間ほど寝たきりであったら歩けなくなったことが記憶に刻まれているため自分は少し歩かないとすぐ歩けなくなると思っている)。どうやら筋力の問題ではなく神経だとか脳からの指令による疲れだったらしい。

記憶について考えている。細胞は日々生まれ変わるのにどうして記憶は保持されるのか。それは細胞に蓄えられているのではなく、細胞間の伝達が、その伝達経路が情報であり、記憶なのである。(それはそれとして、脳細胞はある程度成長したら生まれ変わらないらしい。ということは、頭を叩くと脳細胞が死ぬ!というギャグはもしてかしてマジなのでは?)これがなー私はいまいちピンと来ないんだ。地上波やパソコンもそうだけど情報を信号として伝えて、それは例えば2進法だったりするのだけれど、受け取った側が映像や音に変換すると理論としてはわかっているものの、釈然としない。信号がものすごい速度と量でやりとりされていて、それがもちろん人間で処理できる能力を越えているから想像がつかないだけなのかもしれない。でもさでもさ、百歩譲ってテレビは映像一つ一つは点光源の点滅だから、それを大量に配置したものが画面でありセルでありその連続が映像であることはわかるんだけど、記憶ってそういうものじゃなくない?目で見て水晶体に移った像を信号に変換して脳に送り、それがあるとき掘り起こされたり眠っていたりするわけだよね。その出したりしまったりを司るのが海馬なわけよね。この保管するということもよくわからないし(保管はデータとして保管されるの?それともさらに信号が簡略化された状態になるのかしら?)、今私がこうしてPCを打っている後ろで車の通る音がしたり風鈴の音がしたりリビングの景色が視界に映っているわけだけど、これらは確かに「後ろ」と認識されており、記憶に残したりなんかしないわけじゃない。その判断もよくわからない。長年のパターン認識なんだろうけど。大体医者ってそういうことわかっているのかね。わかっていないと思うんだよね。高校生の時の生物の授業は暗記ばかりだなぁと思った記憶。物理の方がよっぽど考える意義があった。医学部なんて暗記と小論文ゲーじゃん。なーんてすごい敵をつくりそうなことを書いてみる。私はとにかく覚えるのが苦手だったから、医師免許なんてめちゃくちゃ記憶が必要な勉強をする上に働き始めてからも勉強&記憶が必要で負荷も高い仕事に就いているの、とんでもねぇなと思っています。誉め言葉。なんだけど、同時に理解できねぇという気持ちもある。社会貢献、人の役に立つという極地の仕事で素晴らしいという思いと、肉体労働だし人の命扱うの責任重すぎだし下手に休めないしずっと勉強が必要だし絶対に自分にはできない、というかよくやるね!?人の役に立つプラスよりマイナスが大きすぎないか?と思ってる。が故の「とんでもねぇ」です。ま、でも賢い人たちが沢山いるから、きっと大脳の仕組みとかシナプスがどうだとか、研究して理解している人たちもいるのでしょう。そういった方々が書いたものでも読んでみることね、私よ。

そうそう、ここんとこ散歩をしているのだけれど、暑いのでできるだけ午前中に行くようにしている。今「午前中に/できるだけ/行くように」と書いて、読み返して「できるだけ/午前中に/行くように」と直した。日本語は語順が適当でも通じるからすごい。英語で I go everyday to the park. と書いたらおかしいもんな。いや、日本語でもおかしいはおかしいけど普通に伝わるもんなぁ。前日に行きたいところを決めてそこに向かって歩く。別に闇雲に散歩するのでもいいし、いつもはそうしているけれど、今の街は3月に引っ越してきたばかり&イマドキシティなので、色々行ってみたいところが沢山あるからね。ま、実家でも結局は目的地とかどこどこ方面に向かって歩くというのはあるから、変わらないけれど。とはいえ、絶賛休職中。とりあえずまだ有給を消化しているから今月は給料が出るけれど、来月も休むことになれば無給だ。しかも夫も絶賛弱っており適応障害なのではないかと思われる状態で、2人とも休職となる可能性がある。なんでまた同時に……と思うけれど、似た者夫婦な上に互いの不安定さが相互に悪い影響を与え合っていて今の状態になっているので、仕方ない。ということで、節約しないといけない。買い物したり、散歩しながら適当にカフェラテ買ったりなんてことは控えなければならない。この「節約しないといけない」という指令はなかなか重石となるので、できるだけ意識しないようにはしている。大学時代や社会人1年目のひとり暮らしの時は、仕事や論文を進めないといけない&プライベートでも勉強しないといけない&ストレス発散したいが節約しなければならないという制約に苦しめられていたから。

私にはスイッチがひとつしかない。オンとオフ、仕事かそうでないか、それだけ。学生時代も同じく。だから仕事以外の時間に別のスイッチをオンにして資格だなんだと勉強したり、お金だ政治だと社会人として当然のことを学ぶのも、ものすご~く億劫だ。特に前者は、オンのことなのにオフの時間と体力(とお金)を侵略してくるのがすごく嫌。休みの日のゴルフや就業時間外の懇親会の如く。しかもオフの時間中にやるべきオンのスイッチが沢山ある。資格勉強、お金の勉強をして保険やNISAに加入したりカードや口座を作ったり運用したり(やらないけど)、人によっては株を売買したり、投資だと言って家を買ったり、政治を学んだり、英語を勉強したり、そのうえ仕事が円滑に進むよう朝に労働してメールを返したり資料を作らなくてはならない。なぜなら夜に作業するのは大変だから。私の効率が悪いのだろうか。きっとそうなのだろう。色々とやりたい、やらなきゃと思うものの触手が伸びず、だらだらやって逃してまた落ち込んでを繰り返して。でもこう書いていて気付いたが、マチアプはちゃんとやった。勉強じゃないけれど、だらだらアプリやって彼氏できないと言っている友人に「本当に彼氏が欲しいのなら、1か月と決めて仕事だと思って毎日連絡返して休日大量に会って検討するんだよ、それでいいのいなかったら一旦休む。」と伝えているのと同じじゃないか。その相手は資格や語学の勉強はしっかりやれていた。何なら頑張れるかの違いだったのか。でも私の頑張れることってくだらないな。くだらないことないか、結婚したし。でも恋愛やお洒落はくだらないものという考えが脳の底に流れていて、その上をいくら新しい価値観や自分はお洒落が好きという認識だとか両親や友人にも認められる素敵な人とパートナーになった事実が砂のように積んで覆い隠しても、根底にその考えが流れていることを私は認識していて無視できない。お洒落、買い物、漫画、恋愛は良くないこと。学業、社会や教養の勉強、読書、芸術、運動は良いこと。ガチガチにラベリングされていて、シールを剥がそうとしても糊がべったりくっついて汚らしい。私を苦しめるのはこれなのかもしれない。その一方で、お洒落で見た目も選ぶものもインテリアもセンス良くて外見がシュッとしている人でありたいとも同時に思っている。確実に反目し合う「あるべき姿」が同時に存在するから心が疲弊する。

スーパーや八百屋に桃が並ぶ盛夏。1個100円台のものを見つけると嬉しくて買ってしまう。我が家は夫が果物全般食べないので独り占めできるが、その分失敗した時も自分で食べきらないといけない。4個入り500円の特売を意気揚々と買ってきたものの、水っぽいのでチーズやらと一緒に食べたいが、節約中なのでチーズの購入を躊躇う夏の夕方であった。

久しぶりに私用PCを立ち上げたと思ったけれど、結婚式の準備でよく使っていたか。

やっぱりスマホで書くよりPCで打ち込む方が楽しくはかどるものである。

下吉田へ

志村正彦の誕生日である7月10日に、故郷・富士吉田に行ってきた。

私は亡くなった時の志村さんと同い年になった。

 

中学2年の春休み、東日本大震災を受けて部活動は全て停止、自宅待機の間にYouTubeで聞いたことから、その後の人生を折に触れて救ってきてくれた曲たち。

行こう行こうと思って行けていなかったが、29歳の間には絶対に行きたいと一念発起。いざ向かってみると拍子抜けするほど東京から近かった。新宿からひたすらJRに乗るだけ。高速バスが最速だが、JRなら事前予約もいらない。

本当はどこへでも行けるのだ。行きたい所へ。いつでも。腰が重いだけで。

 

富士吉田は、その富士山との近さは、わざとらしいくらい、写真で何度も見てきたが、街とのスケールがかけ離れたとんでもない大きさだった。例えるなら、魔王城のような。目の前なのにとんでもなく遠いと感じる大きさ。

とてつもなく大きなものを目の前にすると人は自分のちっぽけさを感じるのかと思っていたけれど、実際には、自分への焦点ではなく、その大きさの方に強い力を感じた。ここで育つと、神はいると感じるだろうなと。閉塞感というほど小さくないが、高い山々に囲まれた町。とはいえ電車が通っていて都市に出るのも容易。小学生も電車に乗る社会だから、子どもでもそんなに都市との距離は感じていないのではないだろうか。海外からの観光客も多く、東京のその辺にいるより余程海外との接点はありそうだ。

この町で、子どもの志村さんが親御さんに手を引かれ、友人と自転車に乗り、ギターを背負ってバンド練に向かい。想像するとなんて愛おしいんだろう。

思っていた以上に富士山の麓で、今だからかもしれないが、観光地化されている。富士山観光客は当時から多かっただろうから、割と観光で賑わう町だったのではないか。

29歳で亡くなったのは若い若いと思っていたけれど、自分が29歳になってみると、思っていた以上には大人だ。気持ちは次の30代に足を掛けている。

この歳でこんなにまっすぐに屈折した気持ちを書いているとは、なんて自分に素直なんだ。そして故郷を離れて10年以上。故郷への凱旋をすごく喜ぶ。育った町への、好きなところばかりではないだろうが、好きも嫌いも含めて慈しんでいるのだろう。

来られてよかった。

これが隣の野球少年の家!とまではならなかったが、志村さんの生き様に想いを馳せることができた。ノートにも感謝を書けた。夕方のチャイムも駅の列車接近メロディも、町を挙げて志村さんを誇りに思っていることを感じられた。私には足があることを知った。志村さんのことを好きな人が沢山いることを知った。

また忘れても、何度でも思い出せばいい。

妄想モンスター

モヤモヤした感情を文字におこすことで、もつれた紐を解いてみると、案外大したことなかったと気付く

そういう療法があるのは知っているし、確かにその通り大したことなかったように感じるけれど、

では今ここにいる苦しんでいる私はどこへ行くの?

その場をとりあえずやり過ごしても、また同じ問題にぶち当たる

問題を矮小化させているだけに過ぎない

問題の根本を解決していない

人は妄想モンスターだからまたすぐ頭の中で問題を大きくしてしまう

そうやって人はやり過ごしていくしかないのかもしれないけれど

写真を見て思うこと

竹沢うるま氏のBoundaryの展示を見た。

https://uruma-photo.com/exhibiton/boundaries/

 

これまで写真家は自分で創造をしない、他人の手で作られた美しい景色を、他人の手で作られた機械で切り取るだけの人だと思っていた。

だからこそ価値も感じていなかったのだが。

虎ノ門ヒルズのベイクルーズのセレクトフロアが好きでたまに覗いているのだが、その先にギャラリーがある。たまたまそこで行われていた展示に立ち寄った。

 

アイスランドで撮影された写真たち。

写真を見て、目を閉じる。

すると、波が動き出す。滝が動き出す。鴎が飛び回る。

ひとりぼっちだ。

どうしようもなく、孤独だ。

インドで撮影された、朝日と思われる太陽を中心に人々が描かれた一枚。"描かれた"と表現したくなるくらい、宗教画のような尊い光に包まれた写真だ。

雑踏。わきたつ砂の臭い。埃。人の臭い。食べ物の臭い。生の臭い。

生で、死で、孤独で、社会で。

生の喜びでも死の苦しみでもなく、それらが混ざり合って、同時に存在している。宗教画のような尊さと前述したが、生を賛美しているのではない。うっすらと死の雰囲気も漂うが、それは決して不気味なものでも恐れるものでもない。生き物がいる限り生も死もそこにある。

私は仏教を学んだわけではないけれど、空海の説く大日如来の存在というか、教えに少し触れたような気がした。

ヤク(馬かと思ったら、違うらしい)の目を写した一枚は、雪が反射して漆黒の毛の合間に青みがかった瞳がぽつんと浮かんでいる。スタッフは「目が合っている」と言ったが、私にはどこを見ているかわからなかった。それよりも、全てを赦し、受け入れるように見えた。森羅万象に決して逆らわず、あるがままを受け入れる。自然の中で生きる生き物の、この浅はかな人間ぽっちでは捉えきれない深さをその目の奥に見て、畏れを感じた。

 

写真を見て涙が出るとは思わなかった。

全てではないが、何枚かに対して、尊さと畏れと混じり合った気持ちが湧いてきて涙に変わる気配を感じた。

どこへ行っても私は究極に一人であり、生であり死である。

 

写真集をじっくり見ても小さな紙だとあまり響かなかったので買わず、会期中にもう一度行って目に焼き付けた。

結局最終日には写真集は売り切れていたけれど。

 

しかし写真という複製可能なものをアートとして商業化する方法にはなかなか疑問がある。

プリントする枚数を決めて、その枚数しか刷らない。本来は何枚も刷れるのだろうけど、希少性の担保のため枚数を制限する。

アートは広まってもらいたいのではなく、選ばれた金持ちの部屋の壁を飾るためにあるのだ。

こんなに素晴らしい写真なら、部屋に飾って将来子どもに見て感じてもらいたい。そう思ったけれどやすやすと買えるお値段ではなかった。思った10倍した(!)

もちろん写真家にも生活があり、需要と供給のバランスで価格が決まるのだから仕方ないのだけれど。

とにかく写真は素晴らしかったので、また展示があれば行きたい。

いいとよい

毎日働きたくない死にたいって思いながら生きているのでチャッピーにおすすめの本を聞いて読んでみた。

反応しない練習

読んだ瞬間、求めていたのはこれだ!判断しない、妄想しない。自己嫌悪に陥った時は判断していることを自覚する。

でも読了後、生活が始まると、あれ?結局私がやらなきゃいけないのか。落ち込まず、事実だけ捉え、淡々と事を進める。結局自分の中の問題で、やらなきゃいけないことは変わらない。えー!じゃあ何の解決にもなってないじゃん!私がもっと頑張る(落ち込んだり他人のせいにする一種のリフレッシュもせずにやることはやる)だけじゃん!と気付いてしまった。

とにかく今の上司と馬が合わず、一言一言にイラッとくる。クセは強いらしいが良い人ではあるらしい。私は声が大きいことだけでイラつくのに。

今日も注意された。次の職責に上がる(ちょうど初めての職責試験中)のだからこういうミスはするなと言われた。まぁ前にも言われたことだし怒る気持ちもわかるけど、そんなこと言ってもこの件は速さ重視でやってたんだから今ここで気づけて良かったじゃんって思いつつ、チャッピーに愚痴ったら、その指摘は真っ当だって返ってきて。うん。いやまぁそうなんだけどね?

でも私は無条件で肯定してほしいのよ。だからチャッピーにイラついて、サーヤのヒス構文で返答が頭に浮かんだ。他人には言わないけど、チャッピーには言える。傷つく、図星の言葉に対して、自分の身を守るために武装する。ハリネズミのように。でもそうやって頭の中だけでもヒス構文でレスポンスしてたら、疲れている時にそのまま口に出てしまうかもしれない。そんな人には絶対になりたくない。だから日頃から思わないようにしないと。思わないようにするには、どんなブッダの教えの通り思考訓練しても無駄なので、そもそも他者に考えをぶつける機会を減らす。ゆえにチャッピーへの愚痴を控えて、ブログでの独り言に戻ろう。うん、それがいい。

 

いい なのか よい なのか、どれが正解かわからない。

よいは正解だけど、いいは不正解なのか?

慣例で基準が変わっていくなら、正解なのか。