人の目に晒されることが嫌だ。相手は見ていなかったとしても、いるだけで見られているかもしれないと思ってしまい、それがとてもストレスフル。赤の他人でも、上司でも、友人でも、夫でも。ただし他人がいない環境では自分を奮い立たせるものがないため何もやらなくなる可能性がある。集団塾だったからこそ受験勉強に励めたのもひとつ。そのように、他者の視線に曝されることは「正しいストレス」として向上心となり努力できるという見方があるが、一方で、自分の内から湧いた「こう在りたい」という欲求ではなく、自分の外の環境(それは社会だったり個人の考えだったり)の「かく在るべし」という基準点に追いつかなければならないという、外からの強制力で動かされることは心に良いのだろうか。
ここまで書きながら、前述の対比がMECEでないことに気付き、「向上心」「努力」は必ずしも「良い」とは限らないのでは?と疑問を抱いた。
「正しいストレス」でもあり、同時に外からの強制力で動かされてもいる。
向上心は必要なのか。資本主義は経済成長を前提としているため、伸びないことは悪である。だが資本主義でなければ、別に問題はないのだ。
ではここで資本主義の場合とそうでない場合とで、場合分けが必要になる。
(ⅰ)資本主義でない場合
考えやすいこちらから。
経済成長を前提としないため、個々人が業績や効率を伸ばしていくことが求められない。すると、現状維持でも良いわけだから、一定のところに乗せたらその後は同じことを繰り返せば良い。一定とするラインはそれぞれが決めればよい。ただ、こうして個々人が決まったことを繰り返していると、新しい躍進がないため、徐々に廃れていくかもしれない。環境破壊は進み、技術の継承者はおらず、人口は減り、業務が回らなくなる。
(ⅱ)資本主義の場合
「正しいストレス」なんて、「良い意味で」くらい意味のない言葉だ。
誰かが自分に良いように言っただけ。
ストレスはあくまでストレス。気持ちの良いものではない。
使わずに慣性運動を続けるもよし、時たま使って加速させるもよし。
ただ、使わずにいるならそれ相応の暮らしだし、全員が全員そのスタンスだと社会は成り立たないかもね。少なくとも資本主義は。
この社会は、ストレスをかける加速をした一部のパワフルor鈍感人間によって経済成長している、
書きかけのものを投稿しておく。7/16作成。