竹沢うるま氏のBoundaryの展示を見た。
https://uruma-photo.com/exhibiton/boundaries/
これまで写真家は自分で創造をしない、他人の手で作られた美しい景色を、他人の手で作られた機械で切り取るだけの人だと思っていた。
だからこそ価値も感じていなかったのだが。
虎ノ門ヒルズのベイクルーズのセレクトフロアが好きでたまに覗いているのだが、その先にギャラリーがある。たまたまそこで行われていた展示に立ち寄った。
アイスランドで撮影された写真たち。
写真を見て、目を閉じる。
すると、波が動き出す。滝が動き出す。鴎が飛び回る。
ひとりぼっちだ。
どうしようもなく、孤独だ。
インドで撮影された、朝日と思われる太陽を中心に人々が描かれた一枚。"描かれた"と表現したくなるくらい、宗教画のような尊い光に包まれた写真だ。
雑踏。わきたつ砂の臭い。埃。人の臭い。食べ物の臭い。生の臭い。
生で、死で、孤独で、社会で。
生の喜びでも死の苦しみでもなく、それらが混ざり合って、同時に存在している。宗教画のような尊さと前述したが、生を賛美しているのではない。うっすらと死の雰囲気も漂うが、それは決して不気味なものでも恐れるものでもない。生き物がいる限り生も死もそこにある。
私は仏教を学んだわけではないけれど、空海の説く大日如来の存在というか、教えに少し触れたような気がした。
ヤク(馬かと思ったら、違うらしい)の目を写した一枚は、雪が反射して漆黒の毛の合間に青みがかった瞳がぽつんと浮かんでいる。スタッフは「目が合っている」と言ったが、私にはどこを見ているかわからなかった。それよりも、全てを赦し、受け入れるように見えた。森羅万象に決して逆らわず、あるがままを受け入れる。自然の中で生きる生き物の、この浅はかな人間ぽっちでは捉えきれない深さをその目の奥に見て、畏れを感じた。
写真を見て涙が出るとは思わなかった。
全てではないが、何枚かに対して、尊さと畏れと混じり合った気持ちが湧いてきて涙に変わる気配を感じた。
どこへ行っても私は究極に一人であり、生であり死である。
写真集をじっくり見ても小さな紙だとあまり響かなかったので買わず、会期中にもう一度行って目に焼き付けた。
結局最終日には写真集は売り切れていたけれど。
しかし写真という複製可能なものをアートとして商業化する方法にはなかなか疑問がある。
プリントする枚数を決めて、その枚数しか刷らない。本来は何枚も刷れるのだろうけど、希少性の担保のため枚数を制限する。
アートは広まってもらいたいのではなく、選ばれた金持ちの部屋の壁を飾るためにあるのだ。
こんなに素晴らしい写真なら、部屋に飾って将来子どもに見て感じてもらいたい。そう思ったけれどやすやすと買えるお値段ではなかった。思った10倍した(!)
もちろん写真家にも生活があり、需要と供給のバランスで価格が決まるのだから仕方ないのだけれど。
とにかく写真は素晴らしかったので、また展示があれば行きたい。