kongaragaruのブログ

こんがらがると10回言ってみてください。こんがらがります。

他人に思い煩うことなく生きる

いざ真っ白の編集画面に向き合うと、何を書いたら良いのかわからない。さっきまであんなに頭の中にブログ文があったのに。私は常にブログを書いている。頭の中で。それはtwitterの時もある。短文ということだ。そこで考えたことを実際に書こうと「今何してる?」をクリックすると何も出てこない、打ち終えても公に見せるものでもないなと下書き保存行き、ツイートしてもやっぱり自分の価値を下げる文かもしれないと「ツイート削除」をカチッ。うだうだとものを考えている。こういうことを逐一記録しておくべきだと思う。「べき」という言葉は嫌いだ。この世に「良い/悪い」はないからするべきことなど何も無いのだ。生きても死んでも良いし同族を殺したって良いし嘘をついても良い。ザリガニが共食いで裁かれることはないし毒虫に擬態した虫が怒られることもない。人間は種の存続のために社会を形成することを選び、その社会の存続のために設けた勝手なルールなのだ。新しく生まれてくる個体がその社会に属する義務はないし属さないのなら利益を享受する権利もない。こんなことを考えだすと社会を構成する全てのことに疑問が生じるし、同時に自由への疑問も生じる。自由を求めるなら社会は必要ないのではないか。ヒッピーは自由を求める癖に群れをなし社会をつくっているのウケるな。人間に完全な自由などないのだ。ターザンくらいじゃないか?よくわからない。ターザンだって他の野生動物たちと交流し、カーラの教育下で育てられるわけだし、自由ではないのかもしれない。自由とは一人で生きていくことなのか。一人ってなんだ。誰とも顔を合わさないことなのか。口をきかないことなのか。…(これは⌘+で出てきた。どれを押したら出てくるのか色々ぽちぽちしていたら後に続けようと思っていた言葉を忘れてしまったので別の話にいく。)昨夜考えていたことでも書くか。嫌いなものを排除して生きることについて。ハーフの人間が「質問カード」を対話の相手に配っているという話に対して、それは相手のコミュニケーション努力を裏切る行為だという意見を見かけた。その通りだと思ったし私も初対面でこれをされたらコミュニケーションにかなり慎重になってしまうだろう。その意見を述べていた方が私の敬愛する方だったのですぐにふむふむなるほどそうだ全くなんて失礼な人間なんだコイツはと思ってしまったのだが自分のこういうところが本当に好きじゃない。好きな人の嫌いな人は嫌い、という自分の意見はどこいった?状態になってしまう。何事にも疑問をもって生きるようにしていきたいのだけれど。でもそれは面倒臭いことでもあるから、この人の言うことは私の正義に照らし合わせて考えると正しいと感じることが多々あるから全て信じよう、と決めてしまうのだ。私は非常に面倒くさがりだと思う。生理用ナプキンを替えるのも面倒くさがっていた人間だ。今もそうだけどまあ頻繁に替えるべきだよなと最近はちゃんと替えてる。文字にすると偉い。すごすぎる。話が脱線しすぎた。いつも頭の中はこんな感じだ。脱線して脱線して最初の話なんて覚えてない。別に誰かに話しているわけじゃないからいい。誰かに話すときは話の軸を通さないと馬鹿だと思われるのでしない。けど普段からこうやって考えている人間が他人と話すときにいきなり変えられるとは思えないので結局馬鹿だと思われているのだろう。「思われて」が変換されなくてムカついた。このPCは都市も変換できない。今はできた。なんなんだ。くそっ親の前だけ良い顔をする意地悪なクラスメイトみたいなことしやがって。涼しい風が通る。今日は雨だと思っていたけど曇りのようだ。自転車で学校行けたな。行きたくないから行かないけど。本返さなきゃな。そうだ親に怒られたんだ。そのことについて書こうと思っていたけどもうどうでもよくなった。文を書くってすごい。私の唯一の趣味かもしらん。嘘。私は多趣味でどうしようもない。ジャニーズにハマるのはやめた。破産する。芸能人のなかでも特に肖像権に厳しい界隈だから、この1年色々と考えた。ジャニーズにハマらなければ肖像権や著作権についてここまで考えることもなかったから良かったと思う。3次元は煩わしい。あまり気にしないことにした。グレーゾーンに白黒つけるのは大変だ。ハマる前と直後はファンが推す選び抜かれたエピソードとファンの欲目を通したメンバーの性格しかわからなくて容易に好きになってしまうけれど、現在進行形で多様な媒体から得られる情報はファンの欲目フィルターを通していないので、は?と思うようなことも多々ある。でもそれは人間なら当たり前のことで、私が追っていたのは私の頭の中に作り上げた2次創作の勝利くんなんだなとか気付くわけですよ。3次元の人間についての2次創作の危険性については、ボヘラプの映画の良さを広めるイラストがtwitterで拡散されて主人公の同性愛指向についての書き方で炎上した件で身にしみた。一方で星野源はアイコンに自分の写真を使われるのは不快だと言う。売れてる人間じゃなきゃ言えないことだなあと前から思っている。だってかけだしのミュージシャンは、100人程度のフォロワーの中の自分の写真をアイコンにしている人からリプきたら嬉しくない?マジもんのファンじゃん!って祝杯あげない?わかんないけど。気持ち悪いって思うのかもしれないけど。経験したことないからわかんない。そう、経験したことないものは全部わからないのだ。憶測でものを言っている。親だってそうだ。経験していないものはわからないし、他者について完全に理解することはできない。5%も理解できないだろう。血が繋がっていることに私は何の価値もないと思っているので(だってそんなこと言ったら遡れば私は安倍ともすぐに繋がるだろうし、もっと遡ればトランプだってマザーテレサだってガンジーだって始皇帝だって同じ人間なんだからどこかで繋がるので広く言えば親族だ。って考えると血とかどうでもよくない?)、子どもに対して自分の価値観でああすべきこうすべきと言われましても、、なわけです。私があなたの上司だとしても同じように行動しましたか?でもそんなifを考えても仕方がないんだよな。私が今現在の私であるからこそこれまでの行動があってそれに対してあの人は怒ってるんだもんな。昔は良かった。高校生くらいまで。あの頃は大人は子どもとは別の生き物だと思っていたから、怒られたら悲しんだり怒ったり理不尽だと言って泣いたりわかってくれないことに悩んだりした。それはそれで苦しかったし、むしろその方が苦しいからやっぱり昔は良かったっていうのはナシで。今は大人も今の自分の延長線上にいるとわかってしまったので、ああさっきのあれでイラついているんだなとか、昨夜話したことが発端なんだなとか、そういうことをすると信用をなくしてまた子どもから相談される機会を失っていることに気付かないのかな?とか、ゆーて私も怒りが続かないタイプだからまた相談してしまうんだろうなとか、あっ他人と比べだした!それはマジで何の意味もないからやめときなって笑、みたいなことを考えながら話を聞く。30歳で天啓が来て突然大人になるというようなことは、twitterなどで周りの大人を見ている限りどうやら無さそうなので、やっぱり58歳になってもムカついた時は他人に怒ってしまうらしい。教育ってなんなんだろう。教育は社会で生きやすくするための知恵を教えることだと思うけど、親が生きてきた社会と子が生きる社会は全然違うので。自分の価値観の押し付けにならないことなんてできないよな。あなたの価値観を教えてと言われて初めて自分の価値観を伝えるべきだと思う。またべきって言っちゃったけど、これは私の正義の上で正しいことなのでべきという言葉を使いました。まあ別に、私は種の保存のために生きてないしより善く生きるべきとも思わないから自分が楽しく生きていければいいので。できるだけ他人に煩わされずに自分の好きなものを楽しみながら生きたい。思い煩うことなく生きよう。タイトルの日本語が合っているのかは知らん。