kongaragaruのブログ

こんがらがると10回言ってみてください。こんがらがります。

シュシュに合わせる服の話

明後日のお出掛けには何を着ていこう。新しく買ったシュシュは付けるとして、髪型は何にして、服は何を合わせよう。手持ちの服で無難な想像はできるけど、もっと自由な発想がしたい。そうそう、一人暮らしのインテリア図解に最近ハマっている。幼少期からお宅探訪を観て一軒家でやっていたことだけど、最近はワンルーム。あれを置きたいな。床掃除がしやすくしよう。朝起きて、会社に行くまでにこう動いて。友人が来たらここでお茶を出して…。おままごとと変わらない。そういうことを夢想するのが好きなのだ。昔は、こんな風に妄想ばかりしている自分は想像力があって他人とは違う優れた存在だと思っていた。たとえテストの点が悪くても、オーディションに落ちても、それでも自分はあの子に無い豊かな想像力を持っているから勝っている。大丈夫。そんな考えが私を支えていた。それが、事務所の所長とのおしゃべりの中で「お金が無限にあったら何がしたい?」と聞かれて打ち砕かれた。全然思いつかない。みみっちぃ、どこかで聞いたような夢しか出てこない。そんなの絶対無理だよ、なんて言われそうな夢が、口からでまかせでも出てこない。ある程度予算が概算できるような事しか思い浮かばない。所長は少年が描くようなとんでもない馬鹿みたいな夢を語った。いつでも所長は少年のようだ。私は若くて、学歴もあり、十分な教育も受けてきて、努力次第で何でも出来るのに、こんなにも想像が乏しい。頭上の街灯に照らされた半径1mの足元しか見ていない。手を伸ばせる範囲の自由だけを夢想している。突然、外国でもちゃっと行ってしまおうかと考えた。なんだか、思いつきで外国に一人旅するのってかっこいいと思ったから(○○、~~~と文を続けるのが癖だ)。親は賛成してくれて、お金も出してくれると言った。でも結局、言語がどうだ費用がどうだと止める理由を探して行かなかった。「普通の人でいいのに」の主人公と変わらない。彼女は行こうとしたけれど、結局同じことだ(「けど」と「けれど」の表記揺れについては、今後一切気にしないこととする。こうして断って「わざとなんですよ」と言うことで誰かに頭が悪くないアピールをしている。しょうもない。)。楽しい夢を描きたい。ワンルーム四畳半にどう暮らすかの話じゃなくて、好きに部屋をつくって好きに物を置きたい。その結果の形がアリの巣穴のようでも、ブルジュ・ハリファのようでもいい。ドバイってアラブのいち都市なのか。国名だと思っていた。こんな常識知らずの知性の欠片も無い奴が自分は優れた人間だとか考えていただなんて笑える。だって地理は苦手だったし、センターでも取らなかったし…。地理は聞いていて苦痛だったけど、倫理は楽しかったから高3で倫政選択に変えた。頭でっかちな人間の考えることはわかりやすい。関連はあれど、世界の記述の仕方は哲学者それぞれだから、哲学の勉強はその人の小説を読んでいるような感覚。この人はこういう社会でこう生きてきたこういう人だから、世界をこう記述したんだな。哲学者の心情を考えなさい。作者の心情を考えなさい。国語と倫理は似ている。話は戻って、制限無く夢想できないことが私が創作家になれない大きな原因だと思う。「思う」「感じる」は読書感想文のようでダサい語尾だ。と感じる。いやそりゃ感じてんのよ。そして主語は私なのよ。あんたが書いてる文なんだから。でも英語だと主語を明確にしていかないといけないんだよね。日本語だと主語を書くと気持ち悪いのに。writingで主語がI,I,I…となってしまうことがよくあった。途中ちょっと受身に変えてみたり、副詞節を先に持ってきてみたりしたけど、気持ち悪い文だった。でも減点はされない。スピコンでもない限り、文章の滑らかさは問われてないから。こんな私でも、小学生の頃は小説家になりたかった。けどそんなことは無理だとわかっていたから小学6年生の将来の夢は編集者と書いた。編集なんてしてどないなるん。スケジュール管理と作家のご機嫌取り、ほんのひと匙の文句。夢の無い夢だと思ったし、本当になりたいとは大して思っていなかった。でも小説家も心の底からなりたいとは思っていなかった。当時から本当に狭い視野で生きている。この「本当に」という副詞も本当にダサい。留学生がこの副詞を使ってきたときは驚いた。程度を表す副詞としては確かによく使われる日本語だけど、veryの直訳は「とても」だし、英語から直訳できる表現ではないと思うから。少なくとも私が英文を書く時に「本当に」という表現は浮かばない。脳内google翻訳にかけやすいよう簡潔な日本語文にしてから英訳していく。この過程があるから英語が上手くならないのだろう。そもそも努力が足りてないか。勉強全般は好きだったが、英語には苦しい思い出が多い。記憶の方法には3種類あるらしい。視覚、聴覚、言語。これを聞いた時納得した。勉強方法について感じていた違和感は記憶の方法が違っていたからで、てことは高校生の頃よく見聞きした「音読すると覚えやすい」「手で書くと覚える」などの勉強方法は人それぞれ合うものが違うからあまり意味のないものだったんだなぁやっぱり。と。もちろん色々試してみて合っているものがあればいいけど、やる前から合わないのが目に見えている方法こそが真の記憶術であるかのように語られるのが苦痛だった。音読しても手で書いても覚えないだろうなぁと思いつつちょっと手は出してみて、やっぱり覚えている実感がなかったからすぐにやめた。長ったらしい外人の名前などは語呂合わせの文章をつくりそれをイラストやストーリーとして脳内にイメージすることで覚えた。目や耳では覚えられない。うちの中高は英語を耳から覚えよう!という教育だったので、合わなくて大変苦労した。高校生になって英語塾に通い始めて構文をしっかり叩き込まれてようやく成績が上がった。自分に合ったやり方を知ることは何事においても一番重要である。突然現れたものはとっつきづらい。その背景や過程、他との連関がわかって初めてそのものを認識できる。相関図の中にしかものは存在できない。目や耳で覚えられる人には相関図が要らないのかなぁと思う。逃げ恥の再放送をちらっと見て、平匡さんの部屋にストーリーが見えなかったので大したドラマじゃないと判断した。そのデスク、デスク上の小物、壁に掛けたポストカード、平匡さんはいつ、何を思ってそれを買ったのか。それが見えてこない。ドラマも映画も小説も、生きている人間の人生の一部分を切り取ったに過ぎないのに、その期間の中にしか生きていないような描き方をする作品は駄目だ。愛がない。よく「続編希望です!」という声が上がるが、それは主人公が同じ戸籍の人間であるだけの全く別の作品である。同じ世界でも公園のベンチの真裏で全く別の物語があるかもしれない。日々を生きていて、すれ違う人全てに人生があり、ストーリーは平行していくつも繰り広げられている。この世界が私の妄想でなければの話だけど。こうやって英語ができない、苦手意識があることを耳からの記憶を強いてきた教育環境のせいにする、こんな自分が一番嫌いだ。何とかして話を転がして自分が見下ろせるように角度をとる。さも自分が上にいるかのようなポーズをとる。それが上手いのは一種の才能かもしれないけどその袋の中には何も入っていない。強い言葉で断定的に語れば強い信念をもった人に見えるし、時々柔らかい言葉を混ぜれば中庸もわかっている頭の良い人に見える。良く見せるのが完璧にできればそれはそれでいいけれど、詰めが甘いからそれすらも完璧じゃない。完璧なんて存在しないけど、それに近付けもしない。何もかもが甘い。私の人生は覚えてきた数学の公式や化学式、英単語の量によって支えられてきた。それを学歴という目に見えるタグと交換して、パンパンになった袋にそのタグをぶら下げて歩いてきた。でも袋はすぐに空になって、でも周囲の人はその立派なタグのついた袋の中身はどんなに素晴らしいものかと寄り集まってくる。本当はその袋の中には何も入っていないのだけど、バレたくない私はその残滓を見せて「ホラこんなに素晴らしいものが入ってますよ、それ以上はまたのお楽しみに!」と言葉巧みに中身を想像させてトンズラする。マジシャンだ。最早詐欺師と言ってもいい。その魔法は遅かれ早かれいずれ解けて、騙されたと知った人々が訴訟に詰め掛けてくるのを恐れている。何とか魔法が解ける前に袋の中身をこさえなければ。詰め掛けた人々に「いえいえホラ本当に中身はあったでしょう?」と披露するために。もう残滓も残り少ない。最後の力を振り絞って立派な内定先というタグを掴んだ。これでようやくひと安心だ。もう隠居に入って南の国でのんびり暮らそう。詐欺に気付いた人々が家に詰め掛けた時にはもう遅い。教えられていた住所はもぬけの殻で、電話番号は全くのインチキだったってワケ。映画の最後のシーンで大統領が小麦畑の前でのんびり暮らしているシーン、あれは何の映画だったっけな。こんなことして何になるんだろう。私の好きなようにしたらいい。好きなように生活して、好きな作品だけを観て、好きなように服を着たらいい。「好きなように」って何?枠の中でなら自由になれる。枠を出たい。本当に制限の無い中で自由に泳ぎたい。でももしかしたらそんなこと誰だって無理なのかもしれない。自由に泳いでいるように見える人も、自分の中の枠と戦っているのかもしれない。私にできることは、枠を広げることだけ。そのためには何をしたらいいんだろう。「学ぶことは真似ぶこと」これを信条に真似をして生きてきたけど、その中に生まれた自分って何なんだろう。必ずしも何かを創造することだけが自分でないことは確かだ。真似することに慣れて、真似することで自分以上の何かに見せかけることの楽さ、優越感に浸り、技術が追い付いてない。「この写真のコーデの真似」「○○風コーデ」そんなことばっかで、自分がしたいことがわからない。最近綺麗になったと言われるのは、ノースリーブを着てヒールを履いていたから。髪を巻いて、かき上げ風にヘアセットしていたから。睫毛を上げて、アイシャドウを塗って、眉毛の描き方が上手になったから。こういう服装も似合うんだなとわかった。それは確かな一つの収穫。でもお嬢さんぽいワンピースにスニーカーで外し!という格好をしたら途端に子どもっぽくなった。戻っちゃった。結局てろてろした素材のノースリーブにかき上げ前髪だから大人っぽく見えてただけなんだ。それが私のしたい格好なの?男に声を掛けられやすい恰好ではあるけど、確かに夜の銀座で飲むならその恰好が適当だと思うけど、じゃあTPO関係なく私がしたい恰好って?このシュシュも、欲しいアクセも、花瓶も、家具も、全部ただ最近流行っているのが良く見えてるだけな気がする。心の底から可愛いと思っている筈なんだけど。TLで良いとされているものを良いと感じるようになっている気がする。自分の中に確固たる評価軸を持ちたい。でも色々なものを良いと感じられるのはそれはそれで幸せなことだとも思う。わからない。私ってもっとカジュアルだけど可愛い物が好きじゃなかった?最近韓国に毒されているのも感じる。いや韓国は何も悪くないのよ。ただ肌を見せて、てろてろで…という物を評価してしまいがち。ただそれでもデニムに目が行ってしまうから、デニムは一生好きなんだろう。こっちに寄せると簡単に褒められるからそっちに流れてしまう。私が本当にしたい恰好って何だろう。シュシュの参考コーデを集めながら考える。とりあえず下の方で結ぶとエレガント寄り、最近の服装に近い。上の方で結ぶとカジュアル寄り、白Tシャツに合わせる人が多い。シュシュとトップスの色味を合わせる人が多い。統一感が出るから簡単。シュシュの色が濃い場合はトップスを白にするとポイントになって簡単。そんなことはわかってる。他にどんなコーデがあるか聞いてんの。なるほどニットに合わせても可愛いね、まだ早いからできないけど…。前髪は軽い方が合う。髪は長い方が有利だな。なんとなく丸呑みにしてしまいそうになるから、できるだけポイントで理解する。コーディネートの写真を見ても、丸呑みしそうになるのをぐっとこらえて、この色とこの色の合わせ方が良い、シルエット、素材の組み合わせ、良いと思ったポイントを明文化する。それが知識になる。「なんとなくいいな」を言語化することで私の血肉になる。全ての作品に感想を書く。今は資格勉強とかする気になれないけど、その時ハマっているものに対して、全力で学びに行く。それがねぇいつもできればいいんだけどねぇ。常に頭を働かせる人間でありたい。